雑記

子供部屋でおじさんになりたかった【40代の足音】

「2024」とかいう見慣れない数字がスマホに表示され、自分自身も40歳とかいうこれまた聴き慣れない年齢を迎えてしまいそうになっている。

たしか成人式で「俺は40までに死ぬ」と言った気がする。あれ?30だったかもしれない。

しなびていく自分が30代であるうちになんらかの文章を残しておきたい。

時間が加速していく

ついこの前まで「昨日は高校生だったのに」と思っていたけど、最近では流石にそんなことはなくなり「昨日まで新社会人だったよな」くらいになっている。

そうなってきた理由は3つある。

1つめ

医療保険に加入したり貯蓄を始めたりと、死ぬ準備を始めたこと。

34歳まで資産50万円以下で生きてきたけど、積立NISAとか投信とかやり始めると資産は時間で堅実に形成されることがわかった。そうなると10年、20年先のことばっか考えてしまう。

5年後の期待値はこれくらい、低く見積もってこれくらい。そんなふうに考えるけど、それらは今この瞬間の楽しみを制限して、存在自体が不透明な将来に備えるとかいう虚しさしかない。

積立なんか特にそうで、現在の評価額がどうであれ、今そこに手をつけるわけでは無いので一喜一憂するのは全く無意味だ。

将来の不安を刈り取ることで、現在に小さな安堵と喜びをもたらすことはできるけど、この喜びこそがまさしく老いであって、死ぬ用意が整っていると感じられる。


もともとは挑戦的な目的を持って金を貯め始めたわけだけど、金とは溜め込めば溜め込むほど使えなくなっていくと知った。

道程にそれなりの苦労と時間が込められているというのが一つの理由。

当初は海外に行きたいという強い動機付けで始めたわけだけど「やっぱ行かんでいいわ」となった後も、土地を買おう、ユートピア(工房)を建てよう、みたいな考えはあったし今もある。

でもそれを手に入れるにしても手元資産を減らしたくないと思ってしまう。

じゃあ1億くらいあればと思うけど、あったらあったで手元に9500万は残したいとか思うに決まってる。

このブログを始めて3年弱で急激に老いて保守的になった。

2つめ

20代しかいないシェアハウスに住んだこと。

大体年齢差がひとまわりくらい違うZ世代なんだけど、決定的な違いはガードの高さだ。

自分は高い塀と堀を築き、そこに籠城するだけでは飽き足らず、暗い部屋の中で日夜自動防衛タレットの製造に勤しんでいる。

でも彼らは猛獣が闊歩するジャングルにすっ裸で寝そべって「お月様きれいだなあ」とか言ってたりしてる。

どう考えても彼らの方が生きてて楽しい。

なのに僕がそうしない、できないのは、猛獣に噛まれて痛かった思い出があるのもそうだし、なによりお月様を見ても感動しないからだ。

彼らは猛獣を恐れないので、自分の正義を貫けるし、どこでもワイワイ騒ぐことができる。

全財産1万円しかないのにガチのビールをケース買いして「お腹すいた」とか言える。

東京や沖縄に行っただけで感動できるし、スマブラを永遠にプレイすることもできる。

まあ僕もオーバーウォッチなら永遠にプレイできるんだけど、彼らといると自分が老いさらばえていることをしっかりと実感できる

ここに存在するのは、会社で20代と接していたところで感じることはできない、リアルライフギャップだ。

この環境は、感動できない老人に新鮮な感覚を与えてくれる場所でもあるし、年齢マウントでストレスを発散できる場所でもある。

家に帰ったら誰かがいて、しょうもないコミュニケーションがあり、しかしお互いがなんの協力義務も負わず独立しているというのは得難い環境で、一人暮らしに戻るというのはなかなか難しい。

彼らもこの場所を気に入っている。しかし彼らは出ていく。

もっと面白そうなものを見つけたから。彼氏彼女と暮らすから。

彼らはなんでも捨てることができる、何も持っていないから。

3つめ

考えたけど特になかった。

チリの山は重くのしかかる

このブログを始めた時「チリの山を築きたい」みたいなことを書いたと思う。

だって、何も積み上げずに30代を迎えて空虚に生きていたから。

20代はそれなりに楽しんでいたと思う。思うがままに目の前の仕事に打ち込んでいれば勝手に何かが築かれるはずと思っていた。

まあ確かにいろんなスキルは身についた。でもお金という価値の権化はついてこなかった。

結局は人様の要望を受けて、それを叶えるための努力をしてきただけであってソースが受動的だ。まあ会社員とはそういうものだと思う。

お金は後からついてこない。というのをしっかりと理解した。

だからブログやYouTubeでチリの山を築こうと思った。

あれから3年、チリの山はチリの山と呼べる程度には積み上がり、僕は満足げな笑みを浮かべる。というのも事実だ。

でもこの山はマジで重い。

手放さないように自分に括り付けていたけどいよいよ動けなくなった。

ものづくりという内容もあり、所有物はとんでも無く膨れ上がり、Kgで表現しても普通に重い。

薄っぺらな人間関係にしても手放し難いものがあまりにも増え、縁もゆかりもなかった福岡とかいう街に鎖で繋がれている。


彼らのようになんでも捨てることができない。持ちすぎてしまったから捨てるのが怖い。

5年前だったら未知の環境にすぐにでも飛び立つ気概があったし、身軽さもあった。

お金だけ足りなかった。

そのためにチリの山を築いたはずが、どっからみても過積載。

もう飛べないペン。多分このまま死ぬペン。

なぜ子供部屋を出てしまったのか

これが本題だ。

「子供部屋おじさん」というワードには蔑みが目立つが、羨望の眼差しも含まれているのではないか。

なぜかというと、並大抵の子供部屋ではおじさんを飼育できないからだ。

現に自分も子供部屋を捨ててしまった。


理由は立地が都心では無く大阪の郊外だったこと。狭かったこと。世帯所得制限のある公営住宅であったこと。地元を出たかったこと。

子供部屋の外はポストアポカリプスだったけど、おじさん養育機能のない子供部屋に戻る意味はない。

だからこそ、子供部屋でおじさん(おばさん)になることほど経済的な生き方はないと常々思う。

一定のプライバシーが確保される広さのある持ち物件で、家に金を入れる必要もなく、結婚するつもりがないのなら100理あって1害なし。

親の資産が十分あれば働かないという選択肢も可能だし、労働者の気持ちを知るために趣味程度に働いてみてもいいだろう。

それは究極のこどおじ養育ポッド


しかし子供部屋に引きこもりながら、社会的動物としての喜びはどこで買えばいいのか。

やっぱり適度なストレス対価の報酬は必要だと思う。なんならストレスから解放だけでもその喜びは半端ない。

危険を冒して獲物を狩る。その成功の繰り返しが幸福の根源とも言える自己肯定感を作り出すと思う。

多くの場合、そのフィールドを社会→労働に求めるというのが一般的で、他の選択肢を取ろうとするだけで噛みつかれることもしばしば。

しかし社会での労働ストレスは適度では無く過度であることが大半だし、自己肯定感を低めてゾンビ化した人もたくさんいる。

ゾンビが生者に噛み付くのは一般常識。


しかし究極の子供部屋を所有していればゾンビを恐れずやりたいことを100個くらい達成できるはず。

興味のあることにひたすら手を出して発信していけばいい。

何からでも情報を発信できて、人間から反応を受けることができるのが現代の強み。

また、子供部屋はシェルターであって牢獄ではない。外に出て自発的な商売を展開することだってできる。

ただ、40年の人生で受注産業的な仕事がこの世で一番ストレスがかかると思ってる。

自分はDIY関連の情報発信をおこなったりするけど、子供部屋を持っていないので自分の利益を疎かにできない。ゆえに工具の情報や技術の紹介など、他人にとって利益となりうる情報発信に縛られる。

もし子供部屋にいればやってみたいことは、ゲーム実況とか、漫画アニメの考察チャンネルとか、あとジャンプルーキーに漫画を投稿したりしてみたい、できれば原作とコンビで作画だけやりたい。そのあと原作専門もやりたい。液タブ欲しいんだよなあ。

20歳前後だったらオーバーウォッチのプロとか目指したいけど、スポーツは才能とかいう物理的特性に左右される。

大谷翔平を見れば自分が大谷翔平でないとわかる。

もちろん何か作るのは好きだし、作って投稿するだけのチャンネルもやってみたい。

新しい子供部屋を手に入れる

ああ子供部屋でやりたいことはたくさんあるじゃないか。

ならば手に入れて見せよう、子供部屋を、再び。

子供部屋は与えられる物ではなく自分で勝ち取る物。それに気づくまでに40年近くもの歳月がかかってしまった。

自分の理想の子供部屋は?

・賃貸で良い(3万円以下)
・6畳くらい
・外にリビングもある
・誰かいる
・UberEatsも使える
・作業場所が近い

今の家だった。

我が家の家賃は2万円で水道高熱インターネット代が定額5000円。

今日からこの場所を子供部屋と呼びたい。シェアメイトにも子供部屋と呼ばせよう。

そして40代を迎えたらおじさんと呼ばれることを受け入れる。今までは「おじさん」と呼ばれたら「殺すぞ」とか「差別だ」って噛みついてたからそれは控える。

しかしまだこの子供部屋は完成しない。

仮にも会社員をやっている人間を子供部屋おじさんと呼べるだろうか。

無職で暗い部屋に引きこもり、液晶の光だけで生活する。それが為せるのが強いこどおじではないか。

それはチリの山を切り崩す生活を始めるという意味で、非常に勇気のいることだ。

今後の確定的な出費を考えてみると、2年後に奨学金の返済が終わり、2.3万/月の所得が増える(も同然)。

12年後には養育費の支払いが終わり5万/月の所得が増える(も同然)。

30年後くらいになるかも知れないけど年金の給付を受けることができる。

50になる前ににサラリーマン月給という既得権益を捨て、YouTubeなどの非対人収益をできれば30万前後維持し、資産積立を打ち切り、不足があれば切り崩すという生活に切り替えたい。

正直今ニートになってメディア収益の拡大に集中する手もあるけど、そんなの怖い。


今の子供部屋が10年後も問題なく住めるとは限らない。

台風で飛ぶかもしれない。

核戦争で世界が滅ぶかもしれない。

スーパーミュータントに襲われるかもしれない。


だから僕は人事を尽くして子供部屋で待つ。

-雑記