悲惨な末路を辿ったわけではない。
少しだけ世界を知り、自分を知り、ブログネタを数話分、手に入れたのだ。
↓前話
-

<中編>未経験から外資製薬MRに転職成功するまでの一部始終
前回、外資系MRの待遇が素晴らしすぎたという話を書いたが、そこに至る、転職活動まで振り返って話したい。異業種未経験の転職は、外資を狙っていく ...
続きを見る
Contents
末路
2年で辞めて、デザイナーに戻った。
自分に似合うお仕事が、何色か分かったということだ。
迷いなく全力を尽くせるようになった。
見ず知らずの土地でゼロから手がかりを探し、運命のクライアントとなる大家とも出会えた。
当時、若者だった男の選択と経験は、十分に価値のあるものだったと言える。
配属
配属先は九州のど田舎。
府民と都民しか経験したことがない、都会の若者だった僕にとって「県」とは週末のレジャーで足を伸ばすところだった。
同時に、配属ガチャによる、未踏の県での生活は楽しみだった。(過去形)
家をさがせ
研修中期に配属が決まり、まずは配属先の所属長に連絡をとる。
どうもはじめまして、私はどうたらこうたらです。
と挨拶すませたら、一度現地に赴いて家を決めなければいけない。
休日を使って探すが、往復交通費宿泊費は当然経費。
ちゃんとしてるなあ。
灰色の羽田から、緑の大地へ
まだまだ飛行機にワクワクする年齢だった(今もする)
羽田空港を離陸する際、眼下の景色は灰色の無彩色だった。
ワープしていざ九州の某県へ舞い降りる。
その光景をまだはっきりと覚えてる。
緑や、めっちゃ緑や、緑のど真ん中に灰色の四角がある。
あんなところ狙って着陸できるのか。
ここに綴るのは九州のサーガ、価値あるものは特に無い。
建物が低いよ
四国の僻地に配属された同期と現地の写真を交換しながら楽しんでいた。
「徳島はめっちゃ建物が低いよ」
「へーそうなんや、こっちは建物がないよ」
空港からバスで、市街地(笑)に到達するまでの間はアメリカを横断してる気分になれた。
ダークサイドへ堕ちる
「田舎に住みたいわ。」
そんなことをほざくのはどこの部族出身者か、田舎なんて旅行だけで十分だ。
勘違いしてはいけない。日本の大半の田舎には情緒なんてない。(おこ)
共産圏と見まごうばかりの、四角いALC壁とプレハブの商店が並ぶ。
旅先で見つける日本の原風景(笑)なんてものは厳選された0.01%ほどのエリアにしかない。
生活圏にスタバもヨドバシもIKEAもH&Mもアップルストアも無いことに恐怖した。
ニトリとゆめタウンはあった。
このように僕の心は容易く荒んで、赴任先に対する理不尽な怒りで塗りつぶされていた。(闇落ち)
東京から来たんですけど
不動産屋で家探し。
設定はクソ田舎に赴任させられて、クソ不機嫌な、クソ生意気な若手社員。
「東京から来たんですけど」という尖った発言を武器に、原住民とつぎつぎに敵対していく。
前編で述べたが、赴任エリアの借り上げ社宅の上限金額は7万弱だった。
しかしここは文明の外縁部。
新築のファミリータイプに住むことにした。
隣人への挨拶でも
「この辺まじでガバいですね(笑)」などという侮蔑的なワードを展開し、順調に敵を増やしていく。
赴任
住まいを決めたら東京の研修にもどり、最後の都内を満喫する。
また戻ってくるで、俺の心の故郷は東京や。
灰色の大地に別れを告げる。
所属営業所は他県(外資あるある)
職場が他県。
都市圏では県またぎでの通勤は当たり前だが、ここは交通インフラの整備もままならない文明の外縁部(2dis目)
県またぎの通勤という選択肢はない。
というわけで、新人だけど営業所に出勤しないと言う、夢のポジションを得た。(月に数回だけ出勤。)
ただこの営業所のある県は、歴史情緒あふれる非常に魅力的な街だった。
なんでここやないねん。
上司ガチャ大外れ
配属ガチャに引き続き、ここも外した。
採用試験でヒキは使い果たしてたんだからしょうがないね。
21年現在は定年退職済みだろう。
絵に描いたような小物キャラだった。
パチスロ北斗の拳で言うと、第一停止で死ぬモヒカン(小)だった。
彼は僕のことを可愛がっていたつもりみたいだったけど、
俺は吐き気がするほど嫌いやったよ?
なので多くは語らない。
パワハラホットラインに電話できなかったのは、僕に奴隷の血が流れていたからだと思う。
途中で30代の新しい上司に変わったんだけど、その人はできる人だったなあ。(情熱不足による無関心)
同僚ガチャ当たり
とてもいい人ばかりで、退職後の結婚式に複数人呼べるくらい、いい人たちだった。
なかでも、OJTの先輩は破天荒極まりなく、最高に面白い人物で、僕のあらゆる立ち振る舞いに、大きな影響を与えてくれた人だった。
その人の表情、仕草、喋り方、多くを真似た。おかげで標準語が少しうつった。
退職後も仕事をまわしてくれたりもした。
業務
製薬会社の営業ってさ、
院長先生をよいしょして、接待して、接待して、接待するんでしょ?
みたいなイメージがあるかもしれないけど。
接待するな
僕が入社したのはそんな時代に突入した初期の頃だった。
当時業界では、プロモーションコードが策定され、会食の上限費用が5000円に設定されていた。
実質接待は消滅したも同然だった。
なので普段の業務は、リストにある医療機関をひたすら回る、ただそれだけ。
開業医まわり
調べてる人は知っての通り、大体の開業医は受付に名刺を出して呼ばれるのを待つスタンス。
時間は医療機関ごとに決まっているため、必然的に訪問する順番は決まってくる。
病院まわり
病院だとルールの独自性が強く、大きく分けて、
【1】完全アポイント制度のところと。
【2】MR置き場で待機して、通りかかるドクターをナンパするパターンに分けられる。
【1】の場合は、それなりに明確な用事を用意していかないと、何しに来たんデスカ?感がハンパない。
【2】の場合は、まずMRが立たされる空間が非常に異様だ。
迷い込んだ患者から見れば、スーツの人間どもが立ち並ぶ姿には恐怖すら感じるだろう。
そしてお目当ての医師が通りかかると、早歩きで歩み寄る。
側から見ると完全にナンパだ。
最初はめちゃくちゃ抵抗があったが、慣れてくると、、、というほど慣れることもなかった。
訪問する意味
正直、2種類あった担当薬剤は、使える患者は限定されるし、お願いしたから処方が増えるものではない。
さらに、ひとつは第一選択薬だったので、患者がいれば自動で使われた。
訪問する意味は、薬の認知拡大が大きかった。
講演会、説明会を開催する喜び
製薬会社において得た大きなものの1つは、プレゼンテーションの場数を踏めたこと。
弁当屋のポイントカードがグレードアップしまくったこと。
説明会
説明会というのは文字通り、薬剤の説明をさせてもらう説明会だ。
実施の提案は、多くの場合ポジティブに受け入れてもらえた。
弁当を貰えるから、と言うのもあるだろうが、医療従事者はコメディカルを含め、知識を求めているように思えた。
僕は入社当初、数値目標にこれの開催を大量に設定した。
会社が用意した説明スライドを使うのだが、多少アレンジしながら、都度言い回しを工夫し、笑いを取れるポイントも増やしていった。
目の配り方、声の張り方、繰り返すたびに磨かれていった。
当時の経験のせいか、
僕はある程度人数のいるプレゼンの場合、常に立って実施するようになった。
歩き回りながら手を振り回しながら演じる感じ(TED)、自分自身がとても楽しめる。
それが全て。
おまけとして、お客さんにも大体喜んでもらえる。
講演会
当時扱っていた薬剤のプロモーションに、最も効果があったのはこれだろう。
まず、その薬は厚労省が認めた第一選択薬である。
裏付ける絶対的なエビデンスがある。
なのに知らないドクターがいる。(専門医でも)
医療は日進月歩、日々上市される新薬の全てを把握するのは無理だろう。
なので専門医資格の更新には、認定の勉強会に出席して、単位を取る必要がある。
ということで、講演会はその単位修得の場として実施するのだ。
本当にいい薬だったので、それを広める活動に協力してくれる情熱的なドクターもいて、そのドクターが演者となって各エリアを巡業していた。
ポジティブなこと
あらゆる福利厚生が充実していた。
海外旅行
全員行ける社員旅行もあれば、インセンティブ的にいける研修や会議という名目の旅行もある。
僕も英語圏の白人主体の国家に、その時初めて行った。しかも最上級のホテルだ、これはほんと素晴らしかった。
ボーナス
このブログの過去記事で「200万以上貯金したことがない」と書いたことがあるんだけど。
それが100万じゃなかった理由は、ボーナス単発で100万以上もらったことがあるからだ。
税金は20万以上引かれた。(年末ある程度戻る)
時間がたっぷりある
講演会などがなければ、野球が始まる前に家にいることもザラだった。
この時いろんな副業にチャレンジしようとして諦めた、ECショップを作ろうとして、htmlほぼ打ち込みでホームページを作ったりしたんだけど、実運用までは至らなかった。
単純に動機付けの不足だった。
ネガティブなこと
いろいろある。
見えない感じられない
この仕事は自分が生み出している成果が、あまりに見えづらい。
営業のように見積もりを提出して、受注し、売り上げをあげるというわけではない。
卸を通して、売れた数量がわかる、毎日PCで確認できる。
今月は上がったな、今月は少ないな、しかしその数字には実感が伴わないのだった。
仕事とは何か
日々病院をまわる。そしてまわる、まわる、まわる。
この仕事には区切りがない。
1つのプロジェクトを完遂して、請求書を投げて、打ち上げで乾杯。
そんな明白なものが何1つない。仕事とは何か?
海外旅行に行っている間は病院を回れない。しかし、クライアントから連絡がくることもない。
僕がいなくても困る人はいない。気楽じゃないか。
ところで仕事って何?
続けられる気がしない
僕の数字は良かった。
しかし、それには実感が伴わず、成功法則も、再現性もなく、方法論を体系的に語ることもできなかった。
同県を担当している先輩の売り上げに引っ張られただけか、運が良かっただけか、そんなところだ。
インセンティブボーナスの異様な額に恐怖した。(喜んだけど)
当時の実績を自信にして、何を担当してもそこそこやれるだろう。
という気は全くしなかった。
営業からMRになれても、MRから営業になるのは難しい。
なので、MRは基本的に転職してもMRだというのが通説だ。
ということで、足を洗うしか選択肢はなかった。
末路のまとめ
MRをやっていて一番楽しかった仕事は、デザインの仕事だった。
意味がわからないと思うが、一番最初は研修の時だった。
パワポでオリジナルスライドを作る研修、この行為は完全にデザインそのものだ。
*イラレフォトショに比べたら使いにくいが、パワポでも十分やれた。
次に講演会や説明会の案内チラシだ。
MRがパワポで適当に作るのが一般的だったが、イラレで本気でやった。
その辺のスキルがだんだん認知されるにつれて、先輩達からも色々とお願いされるようになった。
課対抗のオリエンテーションで、本気のプロモーションムービーを作ったりもした。
最終的に本社マーケが製作する広報資材のマスターデザインを作ることになったりした。(これには複雑な経路がある)
*一般的に使用されるデザインソフト
(イラレ)Illustratorは生活インフラだ。
昔はクラック版(違法コピー)が多く出回っていて、一般の方も結構持っていたが、今はかなり減った。
製薬会社で一番やりがいを感じた仕事
デザインだったんだからしょうがない。
MRはやめるしかない。
ようするに何か考えて、作る仕事が楽しいわけだ。
料理人とか、作家とかでもいいと思う。
かくして僕は
MR資格を持ったデザイナーになった。
退職してからも九州に留まっていたため、先輩経由で、大学から患者向けの出版物のデザインの依頼を受けた。
MR資格を持ったデザイナーにはうってつけの仕事だったと思う。
マジで嬉しかったし結構儲かった。
結果的にMRの二年間は
自分探しの旅だった。
だから貯金は一切できていない。(は?)
(ちなみに僕の専門はインテリアなので、グラフィックは本業ではなく、好きで得意という程度。)